説教要約(11月)

2023年11月26日(日)  説教題:「完全な者」  聖書;ヘブライ人への手紙4章14~5章10節
 イエス様がこの世界に与えられたのは十字架で死に、私たちの罪も含めた不完全なところを贖うためです。ヘブライ人への手紙ではイエス様が大祭司として贖いの業を執り成し続けていることが書かれています。
 その十字架の贖いによってイエス様は苦しみを経験します。そのような出来事を通して救い主は「完全な者」となりました。ただ奇跡の力をもっていたから。聖霊によって身ごもり生まれたから。キリストは救い主なのではありません。死ぬばかりに悲しい痛みを、人間の罪を全て引き受けて死んだから救い主なのです。
イエス様は人間と同じような痛みを知ることによって、その罪を背負ってくれました。それが15節では「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」と書かれています。ここで書かれている「同情」という単語は原文を見てみますと、二つの言葉が組み合わさってできた言葉です。一つは「苦しむ」。もう一つは「共に」。直訳しますと「共に苦しむ」となります。日本語で「同情する」と聞きますと、上から哀れに思うといったイメージを抱きます。しかしイエス様がする「同情」は、それとは違います。「共に苦しむ」ことです。イエスさは私たちと「共に苦しむ」ことをしてくれました。
それは十字架によって実現し、今も天にあって大祭司として、永遠に続いていきます。私たちが生きる現在も、変わらずに続いている贖いの業です。
あなたの今感じている痛み、不安、苦しみ、それらの弱さは、かつてイエス様が経験したものです。それと同時に大祭司として今この瞬間もイエス様は、あなたの覚える痛みを共に苦しんでくれています。イエス様は2000年ほど前に、既に現在あなたの感じている痛みを経験し、それを背負って死んでいきました。そして復活したことによって、その痛みが蘇りの希望によって回復させられることを示してくれています。一人で覚える痛みの傍らには、あなたの傍らには十字架のキリストが共にいます。これは、人間の同情とは比べ物になりません。だからイエス様は「完全な者」として、あなたの救い主です。不完全な私のために死んだ、完全な救い主なのです。

2023年11月19日(日)  説教題:「イエス様ってどんな人?」  聖書;マタイによる福音書1章23節
イエス様は 星の輝くクリスマス   馬小屋でお生まれになりました。
イエス様は 集まってきた人たちに  神様の言葉を教えます。
イエス様は お腹が空いた人たちに  パンをたくさんあげました。
イエス様は おいでと言って     子どものために祈ります。
イエス様は 嫌われ者たちの家に行き 一緒にご飯を食べました。
イエス様は 病気の人の傍にいき   そっと治してあげました。
イエス様は 怒ります 偉い人が悪いことをしたら 怒ります。
イエス様は 捕まりました そして十字架につけられます。
イエス様は 十字架で死にました人間の良くないところを全部背負って死にました。
イエス様は 蘇ります。  そして天に昇りました。
イエス様は もういません でも、私たちと一緒にいます。
イエス様は 悲しいとき 君のそばにいてくれます。
イエス様は 嬉しいとき 君のそばにいてくれます。
イエス様は 一緒です。みんなと一緒にいてくれます。
今日来てくれた子どもたち そして大人たちみんなと一緒に イエス様はいます。
一緒にいてくれる人 それがイエス様です。

2023年11月12日(日)  説教題:「満足した」  聖書;ヨハネによる福音書6章1~15節

この箇所に書かれている5000人に食べ物を分け与えた出来事は誰のためにあったのでしょうか。病が癒され、お腹が満たされたのは集まってきた群衆たちです。しかしここでイエス様はまず、弟子たちを通して人々に働きかけています。彼らは不可能だろうと思っていたのですが、そこから実際にイエス様が満足させたのを目の当たりにしました。命令されて実際に動いた弟子たちは、それによって自分たちの認識が誤りであったことを知ります。この物語はただ人々の空腹を満たすだけではなく、信じられない弟子たちのためにあったのです。

彼らはこの経験が与えられたことによって、イエス様の奇跡を体験することになりました。ここではそのような言葉は書かれていませんが、弟子たちもきっと「満足した」のでありましょう。イエス様の言葉や行いが「絶対に無理だ」と思っているうちは、信じることはできません。しかしイエス様によって命じられて動き、彼らはそれが真実だと実感します。体験を通してキリストの言葉や出来事が真実であると確信すること。これで疑いを持つ彼らは満足したのです。

しかしここで信じられて満足した弟子たちですが、イエス様が十字架で死ぬまで疑いや迷いを持ちながら過ごしていました。イエス様の言葉が真実になるという体験をしたのにも関わらず、それを疑ったり見当違いのことを言ってしまいます。彼らは満足したのに時間が経てば足りなくなってしまったのです。

足りなくなってしまう一人だということ。これは私たちも同じです。私たちもイエス様に動かされて体感したにも関わらず、それを疑い、不安になってしまいます。空しくなってしまいます。私たちも満足しても足りなくってしまう一人です。人間はそのような生き方をしていくしか出来ないのです。

だからこそ私たちは教会に来たり祈ったり、神様を求めていくのでありましょう。教会は足りない部分を補充しにくる場所なのかもしれません。私たちは聖書の言葉や共に献げる賛美と祈り。あるいは同じ教会の人たちとの交流。これを通して神様に動かされていきます。自力でここまで来ることが難しいのであれば、誰かの力を借りて。ここに来られないのであれば、電話や手紙などの通信手段を使って。私たちは教会と関わろうとしていきます。それは今日の弟子たちのように神様に動かされていくことを通して信じられるからです。必ずしも教会がそのような場所ではないこともありますが、それでもイエス様だけは真実です。人間の言葉や人間の業が満たしてくれなくとも、ここを通してあなたに働いてくれる神様は、必ずあなたを思っています。そして必ずあなたと共にイエス様がいて、その主にを背負ってくれています。

神様の働きを実感する出来事を通して、足りないものが補充されていきます。そこであなたは満足します。満足して出ていき一週間を生きて足りなくなったら帰ってくる。だから私たちは教会に関り、そして生きていくのです。

2023年11月5日(日)  説教題:「信仰によって」  聖書;ヘブライ人への手紙11章1~2節
 冒頭にはこう書かれています。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この箇所では聖書に出てくる各人物が信仰によって動かされていき、神様のために働いたことが書かれていました。それは自分だけで終わるのではなく、次の世代へと受け継がれていきます。信仰によって神様に与えられた働きは受け継がれていき、今の私たちまで繋がっているのです。
 この聖書箇所では先祖代々信仰が受け継がれてきたことが書かれていますが、それは血の繋がりや戸籍上の家族だけではありません。教会は神の家族です。ここに写真が並べられている一人ひとり。実際に会って話した記憶や教えてもらったこと。生きて信仰生活を示してきた背中など、数々の思い出があることでしょう。この人たちが信じた神様と同じ神様を私たちは信じています。この人たちが礼拝した同じ場所で、私たちは礼拝を守っています。天に帰られた一人ひとり。今は地上にありませんが、その人たちが地上で生きた信仰生活の続きに、私たちも生きているのです。
 召天者記念礼拝で覚える人たちの中には、キリスト教徒になるための洗礼を受けずに天に帰られた人たちもいます。この教会に関係する方の家族や関係者などです。その人たちには信仰によって神様が働いてくれなかったのか。そうではありません。家族を通して神様が働いてくれました。地上での命は終えられたかもしれませんが、その家族の信仰によって、こうして礼拝で共に覚えることが適っています。ご自身の信仰ではなかったとしても、家族である一人ひとりの信仰によって共に祈る機会が与えられているのです。
 私たちが今与えられている信仰の歩みも、私たちだけでは終わりません。未来には私たちの知らない人、まだ見えない人たちがいます。私たちが見えない事実の一人であったように、私たちの先にも神様に望まれている、その一人がいます。この私たちに与えられた信仰も受け継がれていきます。こうして召天者記念礼拝に並べられた写真を見ながら礼拝している私たちも、いつか地上での命は終わりを迎えます。いつかはここに並べられていく日も来ることでしょう。神様のところに帰る日がやってきます。その時まで私たちに与えられたものと同じ信仰は、途切れることはありません。それから先も、途切れることはありません。家族や次の代がいなくとも私たちに与えられた信仰は、神様の望まれている誰かへと引き継がれていくのです。